FC町田ゼルビアは今年、トップチーム創設30周年を迎えました。
本コーナーではクラブ創設者の一人である守屋実相談役に、これまでの歴史を振り返ってもらいます。
どんな想いでこのクラブが作られ、市民クラブとしてどう成長し、Jリーグクラブとなり得たのか。
生き字引と言える守屋相談役からの“言霊”を心に刻み、今後の50周年、100周年につなげたいと思います。
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【第7回 意志が受け継がれた「サッカーフェスティバル IN MACHIDA」の開催】
町田市に全日空を母体にしたプロサッカークラブを誘致する話が頓挫し、「町田にプロサッカークラブを誘致する会」の関係者は失望を隠せませんでした。それでも、私たち関係者が下を向いていても仕方がありません。こうして別の形で活動を継続できるようにと始めたのが「サッカーフェスティバル IN MACHIDA」の開催でした。
Jリーグができる以前から、町田市出身の実力者を数多く輩出してきたことは、町田サッカー協会にとっては誇らしいことでした。ただ、町田市出身の実力者は数多くいるのに、そのことが町田市民には意外と知られていなかったんです。
そこで私たちは議論を進める中で、「町田市出身の選手を集めて、チームを作って試合をすれば、年に一度とはいえ、市民が応援するチームができるし、地域愛や郷土愛が高まるんじゃないか」という考えがまとまりました。そして当時のJリーグ開幕以後のブームに乗る形で、「サッカーフェスティバル IN MACHIDA」の開催にこぎ着けました。
町田スターズと読売ヴェルディが対戦した第1回大会(1993年)のキャッチフレーズは、「未来へはばたけ青少年!」。第1回大会を控えた前夜祭を終えて、外に出ると雪が降っていたことは、今では良い思い出です。また当時の読売ヴェルディには、のちにブラジル体表やイタリアのセリエAで得点王にもなるアモローゾ選手が出場していました。
実績もない始めたばかりの頃は、選手を供給するクラブ側も反発していました。また、Jリーグ側も難色を示していましたが、私たち関係者は年に一度、教え子たちが地元に集うこのフェスティバルを開催できる高揚感を原動力として、粘り強く開催実績を重ねてきました。
こうして実績を積むたびに、フェスティバルの認知度も向上し、次第にJリーグブームも下火になっていたことも追い風となり、当初は難色を示していたJリーグ側もフェスティバルの存在価値に共感するようになっていきました。
ところが、フェスティバルも回を重ねるごとに2,000人、1,000人と観客動員も減少の一途をたどっていきました。ただそれは一方で喜ばしいことでもありました。FC町田のトップチームが年々力をつけたことで、市民の関心がFC町田へと移り変わり、FC町田がフェスティバルに代わる存在として、町田市民に応援されるチームになっていったのです。
こうして96年の9月。「町田にプロサッカークラブを誘致する会」は、「町田にプロサッカーチームを実現する会」へと移行しました。町田にプロサッカークラブを創ろうという市民の夢が、FC町田へと託されるようになったのです。
次回は「実現する会」の活動を通じて、FC町田がクラブとして、どのように発展を遂げていったのか、お話ししていきたいと思います。