【トップチーム創設30周年企画】守屋実の未来への言霊(第4回)

メディア

FC町田ゼルビアは今年、トップチーム創設30周年を迎えました。
本コーナーではクラブ創設者の一人である守屋実相談役に、これまでの歴史を振り返ってもらいます。
どんな想いでこのクラブが作られ、市民クラブとしてどう成長し、Jリーグクラブとなり得たのか。
生き字引と言える守屋相談役からの“言霊”を心に刻み、今後の50周年、100周年につなげたいと思います。
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【第4回 裾野から広げたカテゴリーのピラミッド】

今回はFC町田のカテゴリーのピラミッドが、どんなプロセスを経て構築されたのか、お話していきたいと思います。

重田貞夫先生による強烈なリーダーシップの下、FC町田は全国でも有数の実力を持つチームへと成長を遂げました。前回もお話しましたが、重田先生はドイツのブンデスリーガーのクラブ1.FCケルンをモデルに「町田をケルンにしよう」と町田にプロサッカークラブを作ることを夢見ていました。

そういった話を聞くと、私は「そんなビジョンまで言っていいのだろうか」と思うこともありましたが、そうしたビジョンを語ることで町田の指導者の心に響くものがあったんだと思います。次第に私の心の中にも、重田先生のビジョンの力になりたいという思いが芽生えていきました。

将来的にプロサッカークラブを作るためには、ブンデスリーガのように、各カテゴリーのピラミッドを構築し、やがては完成させなければなりません。私は重田先生の情熱に触発される形で、FC町田のジュニアユースチーム結成に携わるようになりましたが「やるからには、やってやろうじゃないか」とプロジェクトを推し進めてきました。

1977年にFC町田トレーニングセンターが設立されたあと、78年から私は中学生年代のトレーニングセンターも指導してきました。週に1度、選手を招集し、トレーニングをしてきましたが、その年代をジュニアユースチームにするのは自然な流れでした。

そして86年に長野県の白馬村で日本クラブジュニアユース選手権(U-15)の第1回大会が開催されることが決定し、同大会に挑むため、85年にFC町田のジュニアユースチームを結成。同大会への参戦が、ジュニアユースの本格的な出発点となりました。ジュニアユースの一期生には、現役時代に横浜マリノスなどで活躍した鈴木健仁など(現・アビスパ福岡強化部長)がいました。

さらにはジュニアユースの卒業生の受け皿となる形で86年にユースチームを結成し、FC町田の各カテゴリーのピラミッドが段階的にできあがっていきました。それが89年のトップチーム創設により、クラブチームとしての形を成していくこととなります。

このようにFC町田の各カテゴリーのピラミッドが完成し、成熟していく過程で、重田先生や私も「トレーニングセンターが出来た77年生まれの大友健寿(現・取締役社長)や丸山竜平(現・強化部長)、酒井良(現・ジュニアユース監督)らの世代には、日本で開催されるW杯に出てほしい」という話をしてきましたが、実際には戸田和幸が日韓W杯に出場しました。

その事実は、各カテゴリーの構築に携わってきた身としては、感慨深いものがあります。今、こうして振り返ると、重田先生が常々仰られてきた「大きな目標という遠くを見ながら、一歩一歩を築いていく大事さ」が身に染みて思い出されます。

こうして他のJリーグクラブとは一線を画す形で、ゼルビアは最も下のカテゴリーから1つずつ段階的に裾野を広げ、最後にトップチームが創設されました。裾野から頂点のトップカテゴリーに向けて、市民の力で自然発生的にクラブを創り上げていったプロセスは、クラブのオリジナリティーとも言えるでしょう。

次回以降はトップチーム創設後のクラブの歩みと発展について、順を追ってお話ししていきたいと思います。

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