FC町田ゼルビアは今年、トップチーム創設30周年を迎えました。
本コーナーではクラブ創設者の一人である守屋実相談役に、これまでの歴史を振り返ってもらいます。
どんな想いでこのクラブが作られ、市民クラブとしてどう成長し、Jリーグクラブとなり得たのか。
生き字引と言える守屋相談役からの“言霊”を心に刻み、今後の50周年、100周年につなげたいと思います。
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【第1回 トップチーム創設の経緯】
FC町田ゼルビアを愛する皆様、日頃から当クラブにご支援を賜り、ありがとうございます。相談役の守屋実です。ゼルビアは今年2019年でトップチーム創設30周年を迎えました。ここまで支えてくださった町田市民の方々、関係者の方々には、あらためて御礼申し上げます。
クラブは現在、トップチーム創設30周年に向けた関連行事の準備を進めています。その取り組みのひとつとして、クラブの歴史を振り返る意味でも「守屋実の未来への言霊」と題した連載企画を当ホームページで始めることになりました。
記憶をたどりながら、皆様にわかりやすくお伝えできたらと思っておりますので、どうぞ、お付き合いくださいますと幸いです。
まずはトップチーム創設の経緯からお話いたします。クラブの原型であるFC町田は、ジュニアユースが1985年に、ユースが86年に誕生し、89年にFC町田のトップチームを創設する動きが本格化していきました。
「町田市内を代表する社会人チームを創ろう」
当時の町田サッカー協会の理事長、重田貞夫先生の一声が、ゼルビア誕生の第一歩となりました。町田市は“少年サッカーの街”として、数多くの有力選手を輩出してきましたが、高校を卒業した選手たちの“受け皿”となる社会人チームが町田に存在しないことから、町田出身の有力選手は全国各地に散らばっていました。
トップチーム創設の大きな動機は、町田出身の有力選手がプレーできる受け皿となるチームを町田市内に整備すること。そして「町田市民が応援できるチームを創る」ことも大きな動機となりました。
重田先生の言葉に賛同する形で、当時の町田サッカー協会の強化普及部長だった私と、同サッカー協会一般の部の笠原道弘部長、細野雄次副部長の3人が、重田先生の下、トップチームの結成に携わることになりました。
最初に起こした行動は、町田サッカー協会所属の社会人チーム全てに結成の趣旨とセレクションの案内を送付。その中で集まった20人ほどの選手たちで社会人の選抜チームを作ったのが、トップチームの第一歩となりました。
ただ、結成当初は寄せ集めの感は否めず、定期的な練習もなければ、東京都リーグにチーム登録もしていませんでした。チームの活動は都民大会や区郡市の大会にエントリーする程度。本格的な活動開始は翌年の90年。東京都社会人リーグに参加するために、町田市の社会人チームへ、再び積極的に声を掛けました。そして集まったメンバーは20人程度。小山グラウンドを拠点として、定期的なトレーニングも始まりました。
当時はようやくこれで「町田市民が応援するチームができた」と思えたものです。これによって、FC町田のピラミッドは、小学生(ジュニア)・中学生(ジュニアユース)・高校生(ユース)の各カテゴリーに続き、最後にその頂点となるトップチームが創設され、FC町田のクラブとしてのピラミッドが完結しました。
従来のサッカークラブは、トップチーム創設を出発点として、段階的に下部組織のカテゴリーへ裾野が広がっていく形が一般的ですが、ゼルビアの場合は、小学生のジュニアカテゴリーを出発点に、段階的に裾野を広げ、最後にトップチームが創設される形でピラミッドができあがったプロセスを経ています。裾野から頂点のトップカテゴリーに向けて、市民の力で自然発生的にクラブを創り上げていったプロセスは、ゼルビアにとって、誇るべき“アイデンティティー”と言ってもいいでしょう。
第1回はトップチーム創設の経緯からお話してきましたが、ゼルビアというクラブの歴史は、町田市のサッカー少年を対象として、1977年に創設されたFC町田トレーニングセンターを抜きに語ることはできません。
次回はクラブの全ての原型となったFC町田トレーニングセンター設立の経緯について、振り返ります。
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